もう一度、見たかった


   031:夕暮れの墓場に一人佇む

 知り合いが死んだ。付き合いは古い方であると思った。前髪をおろしていた学生時代以来だ。力を持て余すように無軌道だったところへ懐いてきた。直接的な戦闘力は脆弱であるのに人に馴染むことは異様に早かった。初見でも会話次第で相手の過去まで語らせる。だがそこに強制力は働かずに、あくまでも流れや当人の意志でそうなる。群れに吠舞羅という名前がついて、最弱の幹部の二つ名は脆弱を嘲笑いながら不可侵の強みをうかがわせる。草薙以外の人間を無意識的にはねのけていた周防尊の胸元へ滑りこんできた十束多々良。警告した。尊のそばにいると暴力沙汰へ巻き込まれる旨を何度も伝えた。実際に巻き込まれた十束が病院へ担ぎ込まれる騒ぎも起きた。呆れと恐れを含んだ尊の少ない言葉にさえ十束は笑った。だってキングだもん。意味はわからなかった。今もわからない。
 連絡を受けて尊が駆けつけた時にはすることはなかった。出来ることもなかった。狼狽える吠舞羅の面子に草薙が喝をいれ、方々へ指示をする。どんな伝説の主であってもしょせんはバーにたむろす無頼でしかない。尊、あとで話すわ。引っ込んでいろと怒鳴られるより堪えた。見慣れているはずの紅に体の芯が慄然とした気がした。気温の変化に疎くて鈍感だと揶揄される体が凍えたように動かない。
「尊、八田ちゃん連れて戻り。後から連絡入れるさかい。八田ちゃんたちは話聞かれる思うから落ち着かせぇ」
慌ただしさの中で立ち尽くす人影が絶えない。無数の脚に隠された十束の姿は見えなくて、投げ出された手は着ているシャツより白かった。それを嘲るように広がりぬれる紅が鮮烈に。
「みこと!」
しっかりせい。血を吐くような草薙の言葉に目を向ける。草薙が泣き出しそうな気がして指で触れる。暴れる小柄な体躯を尊へ押し付けられた。二人とも戻って落ち着くんや。尊は流れのままに暴れる八田美咲を引っ張ってその場から踵を返した。
 美咲はいち早く現場へ駆けつけたらしく泣き喚いた。目の前で絶息した十束に驚愕し、怒り、悲しんでいた。爆発的な怒りや衝動の後に襲い来る猛烈な後悔と悲哀に子供のように体裁もなくくずおれた。オレが、もうちょっと、早く。十束さん。ねぐらへ戻ると放置されていた銀髪の少女が駆け寄る。美咲と尊の様子に躊躇しつつも平坦な高い声が震えた。
「タタラは?」
「………アンナ、今日はもう、寝ろ」
尊の明瞭な拒絶に少女が伸ばしかけたその小さな手を震わせて引っ込めた。草薙はいつ戻るか判らねぇ。寝ろ。少女の駆け去る足音と美咲の慟哭が頭蓋骨の中で何度も何度も繰り返された。


 草薙の根回しがきいて尊たちの生活にあまり変化はなかった。十束多々良は当然で当たり前な所定の手続きのもと、収まるべき場所へ収まった。ともすれば思い出してしまう哀惜に沈みがちなねぐらから尊は頻繁に抜けだした。尊の耳にピアスが増えた。無理を言って十束の体液を封じてある。すがりたかったのかもしれなかった。理由が欲しかったのかもしれなかった。幹部を奪われた吠舞羅は当然のこととして犯人探しを始めた。十束が最後の最期まで触れていたのは録画機器であったから明確な証拠や手がかりがあると考えられた。映像や音声の解析。尊が知らぬ場所にまで持ちだされて解明が急がれた。尊が吠舞羅の頭としてできることはない。戦闘に必要とあらば駆りだされるつもりであったが地取りや聞き込みには尊は無能すぎる。口数の少なさや粗暴さ、威嚇的ななりがことごとく悪い方へ働く。輪をかけて十束を奪われたことで気が立って見える。結局、黙って待っていろと言われるのが関の山だった。
 意識の及ばない場所での苛立ちは周りはおろか当人さえも消耗させる。尊は何度か少女へ八つ当たりしたのを自覚してからねぐらを空けるようになった。身内に牙を剥きたくない甘さが働いた。見かねた草薙まで苦言をよこす。姫さんが怖がっとるで。頻繁に出歩く尊を面子は止めなかった。たいていは人混みの隅で煙草を喫むだけだ。十束は多趣味であったから出歩くだけで十束が凝っていたものにぶつかる。見かけるたびに連鎖的に十束を思い出しては気を腐らせた。
 それでも人肌恋しいとは思わなかった。ひたすらに歩きまわっては気を失うように眠る。路地裏へ入り込んでは舐めたりすすったりして小銭や食事を稼いだ。相手に乞われるままに同衾し、相手が目覚める前に財布から一部をかすめる。事前に提示した以上の額は取らない。ほしくもなかった。雨が降ってもその辺りの手順を変更しない。誰にも買われなかった夜に雨に打たれて歩きまわる。ねぐらのバーへ戻るなりシャワーを使い長椅子へくずおれるようにして沈む。そして時間が経てば断りもなく出歩く。面子に見限られても良いとさえ思っていた。
 雨が降りだした。反射的に上着で避けようとして上着がないと気づいた。落としたのか忘れたのかも覚えていない。バーで暑くなっておいてきたか。それとも連れ込みの際に忘れたか。ないならしかたがないとそのまま濡れた。夏を思わせるような暑さに連動した雨は叩きつけるようだ。水はけの悪い舗装にはすぐさま溜まりが出来て波紋で水面を揺らした。銀鎖を伝って流れが生まれ、尊の胸元やズボンを濡らす。垂れてくる前髪が鬱陶しくなってはかき上げる。ふらふらと壁際へ歩きながら寄る。目眩のように視界がぐらついては何度も膝を折った。嘔吐はしない。涎さえも出てこない。攣るような渇きは痛いほどだった。喘ぐように開く口元へは皮膚を舐めた雨水が容赦なく流れこむ。
 建物と建物の間に出来た隙間へ滑り込む。無計画で遠慮のない改築や増築の繰り返しの果ての空き地が開けた。すっかり駄目になった脚から力が抜ける。舗装もされない地面は過剰な水分を吸って泥濘む。指や手や靴先や膝がすぐさま泥に沈んだ。一定のところまで泥濘に沈んでもそれ以上は沈まない。沼ではないのだ。尊の体が沈まぬのと同じで水もその先からの浸透や吸収が悪い。叩きつける雨垂れに地面は早々に許容を超えた。排水口に泥まで流れて渦を巻く。まみれた尊は壁に背をすがらせて、飛沫に煙る空間を眇めた目で眺めていた。
 過剰に潤んだ空気は湯気や水蒸気のように喉や肺を膨らませ、皮膚をふかやして意識まで弛めた。
『キーング』
穏やかで間延びした声。知り合った当初からその名で呼ばれる。一学生だった尊を何故だかそう呼んだ。薄く色の抜けた茶髪は長めに揃っていて結べそうだ。地味で落ち着いた色合いのズボンと抜けるように白いシャツ。仄白いそれは発光して見える。長い前髪が彼の表情を隠す。犬がやるように小首を傾げる。
「……クスリ呑んだ覚えはねぇぞ…」
『ねぇ、キング』
白い繊手がゆるりと上がって空をさす。
『夕日って綺麗だよね。真っ赤になるんだ、空が』
『キングもきれいな赤なんでしょう、アンナがそう言ってたな』
『燃えるようっていう例えが本当だって判るくらい紅いんだよ』
『ねえ、キング』

『綺麗だねぇ』

十束多々良は被ることを気にせず人の内側に入ってくる。その延長としてわざと空気を読まぬようなことをする。雨垂れに濡れそぼつ尊の前で夕日の話などありえるどころではない。あったかもしれなかった。眇めた琥珀は蜜のようにどろりと潤む。

「とつかァ」

音もなく降雨が激しさを増す。目の前が見えぬほどに烟ったと思ったのは一瞬ですぐに目の前が透く。仄白いシャツも手もなかった。戦慄く唇を白くなるほど噛み締めた。力のこもる指先や爪が半ば液体の泥を抉り握りつぶす。深く掘られた溝を隠すように泥が垂れて埋めていく。
 ふらつく脚のまま立ち上がって空き地の端から端を歩く。確かめなのか探しているのか明確な目的はなかった。足首や踝の高さまで裾を汚したところでもと来た道を引き返す。激しい雨に往来を歩く影はまばらだ。透けて張り付くシャツの裾や銀鎖の先端から絶え間なく滴が垂れる。不意に耳へ沁みる雨垂れの音に変化が生じる。地面を打つばかりではない音がする。目を眇めれば安物のビニール傘をさした男が立っている。肉桂色の前髪の長さが。眼鏡が馴染んでいるのに掛けたり掛けなかったりする。今日はかけてる。洒落っ気をきかせた衣服の袖や肩が濡れていた。
「みこと」
のろのろ歩くところから退かない。尊も迂回しない。傘の中へ入ると一瞬、雨垂れの音がやんだ。
 その肩口へ尊が顔を伏せた。眼の奥は焼かれているように熱くしびれた。弛んだ口元が再度引き結ばれる。噛んだ唇から出血した。
「くさ、なぎ」
草薙は尊の濡れて蘇芳に凝った髪を撫で梳いた。抱きしめもしないし叱らない。草薙との付き合いは十束と同じように古かった。十束は草薙と共通の知り合いだ。上着くらいはおれや。……なかった。
「あほやね」
しばらく二人で立ち尽くした。草薙の靴や裾がドロドロになっていることだけが網膜へ焼きつく。


 気ぃは、すんだ? 滅多に出さない本気の声だ。尊が体を起こすと顔面をゴシゴシ拭われる。頭からバケツの水をかぶった状態で顔だけ拭かれる理由が判らない。帰ったらシャワーに直行やね。風邪引かれても困るんやで。草薙は自然に歩き出す。手を引くでもないのに尊がついてくると疑わない足取りだ。半身だけ開くように振り向いた草薙がからかった。洟が垂れとるから顔ちゃんと拭き。尊は押し付けられたタオルで顔を拭ってから嘆息した。

「帰ろか? 王様」
「うるせェ」
「雨上がりの夕日は赤うてなぁ」
遠くを見るように細まる草薙の目線を追った。そうらしいな、と相槌を打つのに驚いた顔をされる。知っとるん? 尊、いつも寝よるから。聞いたことがあるだけだ。ため息を吐いた口元が震えて歪んだ。誰からとは訊かれなかった。誰からとも言わなかった。


《了》

行き当たりばったりすぎ              2014年7月22日UP

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